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所蔵資料目録

青字の史料は概要をご覧になれます。
なお、福岡県立図書館の古文書等検索データベースで、目録の検索がご利用になれます。
表をスライドで見ることができます。

秋月諸家文書

 秋月諸家文書は、旧筑前国秋月藩領が出所と推定される諸種史料15点である。
 史料は享保19年(1734)~大正7年(1918)まであり、明治以降の帳簿類が主なものである。 享保19年「天神講定書帳」、明和元年(1764)~弘化3年(1846)、および明治6年(1873)~18年の「天神講備銀根帳」、 明治22年~36年「〔天満宮講〕現金引渡帳」など天神講や頼母子講に関する史料が5点みられる。 そのほかには、金借用簿、普請支出簿、賃金催促の訴えに対する「裁判言渡書」などがみられる。

秋吉文書

 秋吉文書は、かつて大分県立中津中学教員を勤めた秋吉家の史料である。主たる史料は辞令と蔵書類である。 昭和18年(1943)、中津中学校の創立50周年に際し、秋吉三郎は「本校教育尽瘁」につき表彰されている。 現在のところ詳細は不明であるが、蔵書から推察すれば、国語・漢文を担当したと思われる。

安高文書

 安高文書は長期借用史料ではあるが、所蔵者の承諾を得て公開しているものである。
 約12700点を超える膨大な史料のほとんどは、明治29年に生まれ昭和42年70才で没した安高団兵衛がひとりで残したものである。 希代の〈記録魔〉と言われた団兵衛の為せる業ともいえる。
 団兵衛は芦屋町の農家に生まれ、大正期の兵役3年間を除くと終生家業の農業に従事した。13才から日記をつけ始め、金銭出納簿や家業日誌のほかさまざまな記録をつけ続けた。 それらは統計として集計され一覧表にまとめられた。精農家として知られ、積極的に社会活動に参加し表彰を受けるなどした団兵衛は新聞や『芦屋町誌』(昭和47年)にも紹介されている。
 戦後、陸軍芦屋基地に進駐してきた米軍は三里松原の防風林をさらに伐採し、そのため芦屋町周辺の地域は大きな農業被害を受けた。 地元では被害者組合が結成され、国に補償を要求する運動が始められたが、その時に団兵衛のそれまでの記録が大きな効力を発揮する。 この損失補償要求活動はやがて特損法制定へとつながり被害者組合は補償金を獲得することになる。 昭和30年の新聞には「お手柄、団兵衛さん」という見出しが躍る。
 団兵衛は趣味のカメラによる写真も数多く残している。それらには日時・場所・人名などが記載されていることが多く貴重な記録となっている。
 書簡・ハガキもよく保存され、シベリア出兵した同期兵の戦地からの手紙や、北米に移住した親類・知人からの便りは当時の外地の様子を窺う好個の史料となっている。

足立文書

 足立家は、博多大濱の商人で、屋号は米屋、油屋である。 扱っていた米、油、肥料をはじめ、手広く商いを行っていたようである。 主たる史料は、それらの商いに関する帳簿、書状、為替手形、仕切書などである。

有田(建)文書

 有田家は嘉穂郡上西郷村で庄屋を務めた家で、明治時代以降は地主経営を行った。 上西郷村は、江戸時代は秋月藩に属し、明治に入ってからは碓井村に属した。明治42年に碓井村から分離して大隈町に編入し、戦後は嘉穂町を経て現在は嘉麻市の一部となっている。
 史料は若干の近世史料を含むが、ほとんどが明治・大正時代のものであり、この間有田家の当主は武平次・集平・廣の三代にわたっている。武平次は幕末・明治初期に庄屋を務め、集平は碓井村村長を務めた他、碓井村村会議員を務めている。 廣は大隈町町会議員、社団法人嘉穂教育会と財団法人嘉穂育英会で評議員を務めている。このように、有田家は地域の重職を歴任した上西郷の名望家であった。
 また、有田家は麻生家との関わりも深い。集平は嘉穂銀行監査役、廣は嘉穂銀行監査役、同取締役兼幹事、嘉穂貯蓄銀行役員、麻生商店監査役などを務めている。 なお、廣は大正2年に博済貯金株式会社を地元有志とともに設立したものの、半年もたたずに経営難に陥り、麻生太吉の救済を受けている。 廣の弟義之介は太吉三女ヨネの婿養子となっており、麻生商店に入社、後に九州電気軌道株式会社監査役、麻生商店常務取締役、飯塚製作所社長など重職を歴任している。 また、同じく廣の弟で大屋家の養子となった唯雄は博済無尽会社(博済貯金株式会社の改称)支配人、嘉穂銀行大隈支店支配人となっている。
 史料は企業活動に関するものはほとんど無く、有田家の家政に関するものが多い。近世史料は年貢上納関係史料、明治以降は領収書や大福帳、書簡などが含まれる。 また、本史料の有田家と親戚関係にあたると考えられる、碓井尋常小学校校長を務めた有田喜太郎、碓井村上西郷区人民惣代の有田仲太郎、碓井村第七区区長代理の有田長兵衛の名前も散見され、明治期の有田家と地域との関係を知ることができる。

井手(武)文書

 井手(武)文書は古書店からの購入史料である。 井手家は御笠郡下見村(現筑紫野市)の大地主で近世期より酒造業なども営んでおり、明治6年の筑前竹槍一揆では打ちこわしの被害に遭っている。 明治期の武右衛門は徴兵検査の立会役である徴兵参事員や郡会議員などを務める一方、地元有力者らにより設立された御笠銀行の取締役に就任している。 史料は御笠銀行に関するもののほか、筑紫郡役所からの通知などがある。明治30年秋の陸軍演習に際しての通達は、軍隊通行地に課せられた事項が列挙されている。 なお、井手(武)文書はほかに個人蔵もあるなど散逸が確認されているが、近世天明期から昭和10年ほどまでの1000点を越す史料が筑紫野市歴史博物館(ふるさと館ちくしの)で保管・公開されている。(ただし要事前連絡)

石野文書

 石野文書は、旧筑後国生葉郡下宮田村(現・うきは市吉井町宮田)の庄屋(代)を勤めた石野家に関する419点の史料である。
 近世の下宮田村は、はじめ柳川藩領、元和6年(1620)に久留米藩領となり、大庄屋石井組に属していた。 明治9年(1876)に北隣の四太郎村とともに宮田村の一部となり、その後、宮田村は明治22年の大合併で千年村、昭和30年(1955)以降は吉井町の大字となった。
 史料は、元禄12年(1699)~大正7年(1918)のものであり、半数ほどが近世の史料である。 近世中期の貢租や水利に関する史料が若干見られるが、とくに天保期以降の下宮田村庄屋役を務めた石野隆七、丈一に関わる史料が多くを占める。 石野隆七が明治4年に下宮田・四太郎・今丸三ヶ村の庄屋役を務めていた関係から、四太郎村や今丸村の史料も若干含まれている。 日田街道に近い立地のため交通に関する史料も見られ、また隈上川より引いた用水路についての諸村(朝田村、福久村、溝尻村など)との取り決めに関する史料、 慶応期から大正期までの公用・私用の日記類などが見られる。

※ 本ホームページ上の目録の他に、仮目録および解題が、福岡地域史研究所編・発行『福岡県地域史研究』18号(平成12年)に収録されています。

石橋(ハ)文書

 石橋(ハ)文書は、柳川市横山町石橋ハツエ氏から県史編纂のため寄贈された320点の史料である。近世史料を若干含むが、中心となるのは明治以降の地主史料である。
 史料内容として、明治14年(1881)に、山門郡中島村・東開村・明野村・豊原村・皿垣開村・佃村で実施された裂地調べの史料、明治20年の地目変換、落地編入、畦畔新設関係の帳簿、 明治30年代以降の小作地台帳、昭和期の小作米台帳などがある。また、家関係では家訓・遺言などが残されている。

石橋文書

 石橋文書は、旧早良郡入部村東入部の大地主であった石橋家の旧蔵史料229点である。
 史料の内容は、明治14年(1881)11月改「西脇村小作帳」、明治30年代を中心とした講・納税・小作・早良貯蓄銀行などの史料が中心で、その他にも雑多な史料が含まれている。 また、安永期から明治8年頃までの土地の質入、売渡証文の一群があり、いずれも一紙文書である。
 文書の表題の頭に「吉田」の印を押したものが多く、近世の土地異動を明治初年の地番(朱書している)で照合し、「・・・県第八大区/・・・戸長役場印」という割印があるところからみて、 多くが近世文書ではあるが、戸長役場文書として生きていた史料群と考えられる。

伊藤(昌)文書

 幕末から昭和初期にかけての田川郡安真木村(現・川崎町)の伊藤家に関する447点の史料群である。小作関係の帳簿や借用証文などが中心であるが、明治後期の県会議員選挙や朝鮮・満州への渡航日誌や、大正期から昭和初期の安真木村の行政に関する史料なども含まれている。

大川架橋工事関係資料

 大川架橋工事関係資料は、柳川土木事務所および大川橋架設工事事務所が昭和28年(1953)度から昭和35年度に作成したとみられる5点の簿冊である。 このうちの3点は、昭和28年度から30年度にかけての国道熊本佐賀線(国道208号)の佐賀県諸富町と大川市向島を結ぶ筑後川にかかる大川橋の架設工事に関する史料である。 残る2点は昭和28年度の瀬高佐賀線の山門郡三橋町内における災害復旧工事関係、および昭和35年度の柳川市橋本開地内での海岸堤防修復工事に関するものである。

尾形文書

 京都郡行橋町に関する史料4点。購入史料であり、来歴は不明。史料2の宛名である尾形千三郎は、大正12年に発足して昭和16年に解散した行橋耕地整理組合の評議員を務めている人物。史料3には朱印「尾形」が押印されており、これらの史料は尾形家に関連した人物の元にあったものと推測される。

貝原収蔵文書

 貝原収蔵は戦前、大陸で活動した実業家である。 明治12年(1879)に貝原益軒の分家9代目貝原秀雄の弟として生まれた。 修猷館、東洋協会(拓殖大学)を卒業後、明治38年7月大阪商船会社に就職し、江副商会に転社、大連で煙草販売に当たった。 明治39年、東亜煙草株式会社に転社し、第一次大戦期には東洋塩業株式会社常務取締役、青島塩混保管倉庫会社取締役、青島塩業組合長などを歴任した。 その他、居留民や日本人企業全体のとりまとめを行う要職も歴任した。 第二次大戦後は、福岡県引揚者更正会連合会長を務め、昭和48年(1973)6月に没した。
 戦前期、大陸に進出した一日本人実業家の軌跡の一端を窺うことができる興味深い史料である。

「糟屋郡史」編纂関係資料

 「糟屋郡史」編纂関係資料は、「糟屋郡史」編纂に関する200点以上の史料である。
 昭和12年(1937)に糟屋郡教育会で皇紀2600年記念として「糟屋郡史」を編纂することが決まった。詳細な目次も決定し、一部の原稿の執筆も終わっていたが、「糟屋郡史」は遂に完成されず、計画も途中で放棄されている。 理由は明らかではないが、「粕屋郡郷土史編纂趣意書」(史料番号150)は、出版費用をまかなうための寄付を募る内容であり、資金難も出版されなかった理由のひとつである可能性がある。
 なお、糟屋郡教育会は、県内の教育関係者などが加入していた民間団体、福岡県教育会の糟屋郡支部である。福岡県教育会は明治21年(1888)創立で、会報の発行や研究会の開催、教職員の夏季講習や待遇改善、 中学校増設運動など、教育に関する事業を幅広く行っていた。昭和9年(1934)に社団法人となり、昭和22年(1947)解散。多くの支部も解散した。
 史料は、編纂に関する編集事跡、収集史料、未定原稿がある。収集史料は全て写しであるが、この中には原本がすでに失われたものもあり、貴重な史料を含んでいる。 また、夏期講習の受講メモや『福岡県教育』(福岡県教育会の会報)など、福岡県教育会の活動に関する史料も含まれている。

糟屋郡・宗像郡戸長役場関係資料

 糟屋・宗像両郡の戸長役場関係の資料6点で、相互の関連はみられない。
  明治13年(1880)から20年までの土地建物売買譲与の公証割印帳の類3冊(内1冊は合綴)には、現在の古賀市、糟屋郡新宮町(的野のみ)にあたる戸長役場の割印がある。
 明治12年、宗像郡三郎丸村の「用水路新築目論見帳」では、瓶樋、麁粂(そだ)、松木、大工、木挽、人足などの見積が書かれている。 明治17年7月「通常村会議案」は戸長今林孫十郎(福間)関係の資料である。 予算案には村吏の給料などが書かれていて興味深い。 明治12年「右門樋変換目論見帳」は宗像郡旧多礼村の資料であり、末尾には彩色をほどこされた地図が添付されている。

片田江資料

 片田江資料は唐津市で活動していた素人浄瑠璃同好会、近松会事務局の史料である。
 史料は昭和30年前後のものが中心であるが、28年に開催した「近松翁追悼浄瑠璃会」の参加申し込み葉書やプログラム、新聞折込チラシなどが残されている。 また、福岡・佐賀・大分・北九州各地に拠点をおいた素義(素人義太夫)会主催の競技会プログラムや成績表などもあり、それらからは当時の浄瑠璃愛好者の活動や交流など北部九州における民衆の浄瑠璃文化の一端が伺える。

河田家資料

河田家資料は松村多恵子氏より寄贈された資料で、多恵子氏の実家である河田家に伝わったものである。
 資料は祖父の市也、父の政一の時代のものに分かれる。
 河田市也は明治12年生まれ、東京郵便電信学校を卒業後逓信省に入省、九州各地の郵便局を歴任したあと、明治38年京城勤務を命じられ昭和7年に退官している。京城で韓国併合や大正天皇・昭和天皇の即位などに遭遇し、折々の紀念章や絵はがきが残る。また「朝鮮特殊通信日附印帖」は明治39年の統監着任紀念から大正8年の朝鮮総督府始政九周年紀念までの34個のスタンプが押印されており、保存状態もよく美しい。
市也の趣味と思われる宝生流の謡の本が、特製の桐箱に93冊揃っている。
 政一の資料はおもに戦中戦後のもので、一部使用された衣料切符や塩購入券などから配給制度下の当時の生活を垣間見ることができる。

川島文書

 那珂郡下警固村に住んでいた川島家に関する史料である。
 1865(元治2)年から1889(明治22)年にかけての、川島計・純幹(甚太郎)2代にわたる史料で総数90点。購入史料であり、来歴は定かではない。 史料によると、川島家は1799(寛政11)年に伊右衛門が福岡藩士の毛利元貞に召抱えられて以降、毛利家に仕えている。伊右衛門の孫にあたる計は毛利元徳に仕え、留守居を務めている。また、財務を担っており、1865(元治2)年には「借財高追々相減」じたことにより加増を受けている。明治以降は大区小区制における伍長を務め、人力車営業、傘仕立・荒物製作などをして生計を立てていたようである。計の長男である純幹(甚太郎)は1863(文久3)年生まれ、1886(明治19)年に東京帝国大学法学部を卒業後、県立中学造士館教授、佐賀県尋常師範学校長などを経て内務省官僚となる。参事官、書記官等を歴任の後、滋賀・鳥取・福井各県の知事を務めた。東京帝大卒業後、造士館に赴任するまでの間に『衆議院議員選挙要論』(敬業社 1889年)・『米国史』(博文社 1890年)・『日本歴史講義 第1集』(敬業社 1891年)等の著書を執筆している。  なお、純幹は草創期の玄洋社に属しており、玄洋社創設認可2ヶ月後の1880(明治13)年12月26日に「川島甚太郎」で入社届が出されている。玄洋社において純幹がどのような活動をしていたかは明らかではないが、1882(明治15)年7月19日の社員名簿には名前があるものの、1887(明治20)年3月19日の社員名簿には名前が無いため、この間に退社したものとみられる。(参考文献:『増補版 玄洋社発掘 もうひとつの自由民権』石瀧豊美著 1997年 西日本新聞社) 史料の約7割が納税の領収書であるが、川島家の由緒や明治維新後の生活を伺うことができ、陪臣だった家が明治維新期をどのように生きていたか、ひとつの事例を示す史料である。

岸田文書

 福岡市東唐人町で石工をしていた岸田文吉に関する史料である。
 購入史料であり総数19点。明治末期から昭和初期にかけての、寺院等の墓地改葬工事に関する契約書や見積書の他、文吉が住んでいた東唐人町の町会関係の史料も含む。  文吉は石製品加工のみならず、墳墓の発掘や掘り出した遺体の納棺・火葬場運搬、埋葬まで、工事に関わる一切を請け負っていたようである。改葬工事関連の他、穴観音で知られる寺塚の興宗寺にある、赤穂浪士の義士墓建設の契約書も含まれている。義士墓は、1935(昭和10)年に篤志家木原善太郎が私財を投じ、泉岳寺にある赤穂浪士墓地の墓石の形や材質・配列・玉垣等すべてを模して造られた。当時の石工の業務実態をうかがうことができる好史料である。

熊谷文書

 熊谷家(朝倉郡杷木町、現・朝倉市)は、文政期ころより製蝋業(屋号は松屋、または蝋屋)、酒造業、地主経営などを営んだ商家兼大地主である。 文久2年(1862)、「〔上座郡〕林田村へ入庄屋役被仰付」、幕末期には「永代弐人扶持被下、猶又格別を以倅代迄大庄屋格」に申し付けられている。
 19世紀初頭から20世紀初頭にかけての、製蝋業の分厚い帳簿類が多数残されている。 土地関係証文類も数多い。 明治・大正期になると、4代藤五郎は松末村会議員、朝倉郡会議員、福岡県会議員ほか多くの公職を務た。 さらに、郡内で最初の私立銀行かつ株式会社として益栄銀行を設立し、その他にも地元企業の取締役、監査役を務めるなど、いわゆる「地方名望家」であった。 したがって、村会・郡会・県会に関する貴重な公文書を多数含む点も、熊谷文書の大きな特徴である。
 熊谷文書は、県史編纂史料のなかでも最大のものの一つである。

古賀(昌)文書

 生葉郡千代久村(現・うきは市吉井町富永)の古賀昌朗、昌史氏家に関係する史料である。 古賀家は千代久村の有力な家で、詳しいことは調査中である。
 本文書は全体でわずかに6点にすぎないが、明治初期の千代久村の土地関係を窺うことができる史料が含まれる。

権藤寿三郎文書

 福岡の医師、権藤寿三郎に関わる購入史料4点。 『九州大学百年史 第1巻 通史編1』(九州大学 平成29年(2017))によると、第五高等学校医学部卒業後、明治29年(1896)4月11日から35年(1902)2月8日まで県立福岡病院で眼科の医員として在籍していた。
 『福岡県官民肖像録』(博進社大正2年(1913))では福岡市今泉の医師として紹介されており、史料も今泉の土地買収に関するものが多数を占めている。

斎田家史料

 斎田家史料は古書店からの購入史料で、61点のうちほとんどが写真史料である。
 斎田耕陽は現筑紫野市阿志岐出身で、明治39年に福岡日日新聞社に入社し、昭和16年の退職までおもに文教方面担当として活躍した。入社前は群馬県や静岡県下の学校教員なども経験している(『筑紫野市史 下巻 近世・近現代』)。
 耕陽の修猷館時代の青年期の写真から退職後も新聞社との関係が継続していたことを窺える晩年の写真まであり、斎田家において所蔵されていたものと推察される。  また、教育者・実業人を中心とする福博の知識階級の人物たちによって創立された「博渉会」の記念写真には、参加者全員の氏名が裏面に明記されており興味深い。
 ほかに別府を訪れた井上馨、鳳号飛行大会、箱崎浜における日本海海戦記念式など明治末から昭和にかけての新聞記事関連の貴重な写真がある。
 なお、ほかに絵はがきが50点ほどあるが、それらは「絵はがき」の目録に掲載している。

佐々木(清)文書

 元陸軍中佐佐々木清の回想録7種類とおもに書簡92点からなる史料である。
 佐々木清は明治26年大分県宇佐郡で生まれ、大分県立宇佐中学校卒業後軍人としての道を歩み始める。大正3年陸軍士官学校本科を卒業、同期には後に盟友関係を結ぶ満井佐吉らがおり、昭和初期におこる国家改造運動に次第に積極的に関わっていくようになる。
 書簡は満井からのものが質量ともに豊富で、大日本護国軍を中心とした北部九州における国家改造運動の動向をうかがうことができる。また、旅団長として上官の立場にあった東条英機からの書簡もある。 東条は二・二六事件に関与したとみなされ免官となった佐々木に再就職の斡旋を行っている。そのほか、行軍の様子を絵入りで伝えた妻宛の書簡なども興味深い。
 回想録7種類のうちには佐々木が筆写した書簡集がある。これは前述の書簡の一部も含まれるが、そうでないものも相当数含まれている。つまり原文書が残っていない書簡が多数筆写されており、現存している書簡類と補完関係にあることになる。 書簡の多くと回想録の一部は下記に翻刻され、史料の詳しい解説もなされている。参照されたい。
●「陸軍の国家改造運動にみる中央と地方‐佐々木清関係文書の検討と紹介‐」(『九州文化史研究所紀要38』平井一臣・有馬学,平成5年,九州大学)
●「一九三二~三五年における陸軍国家改造運動の一面‐佐々木清関係文書の紹介・続-」(『九州文化史研究所紀要40』平井一臣・有馬学,平成8年,九州大学)

篠崎文書

 明治7年(1874)から昭和6年(1931)までの大福帳など長帳11点の史料である。 篠崎家については、所在地をふくめて現在のところ明らかでない。
 この史料で最も古い明治7年の「大福帳」には「小坂屋隠居」とあり、明治中期から大正初期のものには「篠崎藤十郎」や「篠崎商店」の名がみえる。
 点数も少なく断片的な史料であるが、「大福帳」、「萬覚帳」、「当座帳」などの一連の金銭出入りに関する帳簿類のほかには、明治26年の「牛預売買帳」、同32年の「無尽帳」が含まれている。

篠田文書

 篠田文書は、大野城市の篠田清竹氏より寄贈された234点の史料である。 代々旧秋月藩士であった篠田家は、明治維新後の六代篠田定明のときに秋月郵便局、続いて甘木郵便局の開設当初からの取扱役を命じられ、その晩年には筑前国三等局長郵務協議会会長を務めている。 また、7代定規も甘木郵便局局長、筑前三等局長会副会長を、8代定明も同職を務めている。
 史料は、慶応から昭和43年(1968)までみられるが、明治初期から昭和10年代までの甘木郵便局関係資料がほとんどである。 明治7年(1874)「日本帝国郵便規則」、昭和10年前後の「給料精算書」、明治期「会計日誌」、昭和初期「諸通達綴」などがある。

庄崎家資料A

 購入資料43点。庄崎家は、中世には原田氏の被官であり、近世には怡土郡の庄屋をつとめた。 庄崎家資料Aは、この庄崎家に関連する資料と考えられる。資料中に名前が見える庄崎弥七郎は、明治期に戸長、糸島郡長糸村村長、県会議員などをつとめている。
 資料には、明治33年の自家用醤油税法により、自家用醤油製造にも課税されていた時代の製造免許状や、怡土城址保存会関係の資料が含まれる。 怡土城址保存会は、怡土城址の保存・顕彰を目的とした団体で、大正14年に保存会により、怡土城址土塁上に碑が建設されている。 なお、下記、庄崎家資料Bも参照のこと。

庄崎家資料B

 購入資料6点。庄崎家の概要については、上記、庄崎家資料Aを参照されたい。庄崎家資料Bも庄崎家に関連する資料と考えられ、両資料は所蔵の経緯は異なるものの、元はひとつの家に伝わったものと推察される。

瀬高酒造合資会社資料

 山門郡瀬高町(現・みやま市瀬高町)にあった「杉翠印」清酒の醸造元の帳簿類12点である。 内訳は「酒類受払帳」が4点、「出入帳」が3点、他は「酒類製造帳」「酒類売上帳」「酒類売場和水帳」「入金内訳帳」「出金内訳帳」である。 時期は、大正元年度から15年度までで、内容、年代ともかなりのばらつきがある。

戦時婦人生活資料

 戦時婦人生活資料は、主に愛国婦人会、主婦之友社から発行された書冊類から構成される。 愛国婦人会は、「我カ国婦人結束ノ力ニ依リ国運ノ隆昌及社会ノ福祉ニ貢献シ併セテ婦人ノ智徳ヲ錬磨シ其ノ地位ヲ向上セシメムルトスル」ことを目的として、明治34年(1901)2月創立された。 主婦之友社から発行された『主婦之友』は、月刊誌である。 附録として、毛糸編み物の編み方などが詳しく紹介されており、当時の生活の一端を知ることができる。

園田文書

 園田家は久留米藩の陪臣で、家老の岸家に仕えた。 園田家初代の孝好が、天和年中(1681~1683)に岸家3代目貞知へ仕官したのが端緒である。 享和元年(1801)に、御井郡五郎丸組市上村に居を構えていることが確認でき、以後代々東久留米に居住した。
 園田文書は256点で、江戸期から明治期にかけての史料群で、近世文書としては、達や岸家書状、家長役誓詞などがあげられる。 達は、近世中期以降の藩財政悪化による家中仕置が主である。 つぎに近代文書として、6代目治興(剣号:円斉)による道場設立などの武芸活動や、金銭貸借に関するものがあげられる。 これらのほか、文化14年(1817)から明治39年(1906)頃までの金銭貸与に関する帳簿が残っているとして「万竹堂」を屋号とし、親戚間をはじめ福嶋村大庄屋や町人など広範に貸与関係を持ち、 近代に入ってからも継続した。 また、俳人でもあった5代目興洽(思成)や「万竹堂詩集」(漢詩)を著した6代目治興を輩出したことに由来するのか、漢詩・和歌なども多く遺されている。

高畠文書

 高畠文書は、17点の史料である。 文書にみえる高畠五郎右衛門由寿は、中村家から高畠家に養子に入り、文政6年(1823)に家督を相続、納戸勤を命ぜられ、その後さまざまな役を勤めている。 慶応期の分限帳によれば禄高420石で、馬廻組に属していた。
 史料の中でも「代々取留所務目録」は寛政元年から元治元年までの所務を書き留めたもので、特に文政6年からは藩政に関わる記録も書き留めている。 また「萬秘伝書」「萬菓子作様并香物漬様薬酒造様之事」など当時の生活に関わる事柄を細かく書き留めたものや、屋敷の様子を詳しく描いた絵図などがある。 この他に文久から明治にかけての、筑前各郡の絵図や海路図、屋敷図、道中図などもある。

高家村文書

 高家村は大分県宇佐郡に位置する。近世の大分県域は領主・領域が度々変わり、「小藩分立」といわれる状況にあった。高家村も黒田領、細川領、小笠原領と変わり、元禄11年(1698)以降は幕府領となっている。幕末期に上・下・東・西高家の4か村に分かれ、干拓によって浜高家村が加わる。
 史料は宝暦~明治の土地売買証文75点。購入史料であり、来歴は明らかではない。ほとんどの史料に、第八大区戸長役場印と明治以降の所在地と高、所有者の朱書きがある。証文の中には、高家村から他藩の地主に土地の権利が渡っているものもあり、藩域を超えて土地の集積が行われていたことがうかがわれる。

戸川(博)文書

 戸川(博)文書は、旧福岡藩士戸川家に伝わる明治・大正期の史料である。 当主戸川直は、明治18年(1885)に設立された士族授産事業のひとつ、筑陽社の設立に参画し副社長となっている。 また、同16年から17年、22年から36年までは県会議員も務め、他にもさまざまな企業の設立に関与している。 同文書は、戸川直の日誌類、北筑軌道・筑紫水力電気・十七銀行等々の営業報告書、農業関係そして書籍類等、全312点からなっている。

杤木商事資料

 杤木商事株式会社は、大正4年(1915)12月に杤木順作商店の業務一切(海陸運送業、石炭販売業、鉄工造船業、代理業、請負業など)を継承して設立された株式会社である。 八幡、東京、阪神、京浜、上海などに支店および出張所を開設し、昭和12年(1937)6月に甲子鉱業株式会社を吸収合併した。 昭和18年6月に鉄工、造船部門を分離し、福岡県若松市に九州造船株式会社を設立した。
 資料点数は少ないが、戦時中の企業資料として貴重である。

友枝村役場文書

 現在の、築上郡上毛町の一部であった友枝村に関する7点の資料である。 この資料は、名称の上では友枝村の資料となっているが、実際の内容は友枝村が所属していた上毛郡(明治29年以後は築上郡)の郡役所が出した通達文書が中心で、 事実上は郡文書というべき史料である。
 現在、全国的には郡役所に関する公文書の多くは散逸したとされており、県内における保存状況も把握されていない。 そのためこの資料は点数こそわずか7点であるが、郡からの告示、公告、訓示などを綴った郡役所関係の貴重な公文書である。

中間唐戸水門文書

 中間唐戸水門文書は、宝暦年間に遠賀川と洞海湾を結び開鑿された堀川運河の、中間と寿命に設けられた唐戸水門の普請に関する史料14点である。 もとは河守神社の史料や、一田家文書などをはじめとする堀川関係の諸文書のどれかと一体のものではなかったかとも考えられるが、由来は明らかではない。
 史料は文政期以降の水門やその上家の普請、堀川筋の板橋の架替えなどに関する長帳、小横帳などである。 そのうち「嘉永七寅年分堀川下拾六ヶ村催合」によれば、堀川筋の中間村、二村、岩瀬村、吉田村など計16か村は、水門の普請、運河の管理(藻浚など)への出費とともに、 堀川を守護していた河守神社の祭礼にも多くの出費を行っている。 また、この年の催合の合計額は「丁銭弐百五拾弐貫八百五拾壱文」であり、これを「水下夫数四拾八人ニ割、壱人ニ付五貫弐百七拾五宛」の計算をとしている。 関係する村は16村であるから1村平均3人ずつとなるが、実際には中間村の「四人七分六厘」から則松村の「八歩」まで、村によってその賦課額が異なっていたことがわかる。 ほかに、嘉麻郡岩崎村庄屋組頭の願書や書状も含まれている。

永江文書

 永江文書は、三池郡江浦村(現・みやま市高田町江浦)の永江純一関係史料を中心とした約19,000点(平成21年8月現在)を超す史料群である。
 永江純一は、嘉永6年(1853)永江藤次郎の長男として生まれた。 明治11年(1878)に三池郡永治村戸長、15年には江浦村の戸長を兼任し、19年県会議員を経て、31年以降衆議院議員をつとめている。 その間、明治19年三池銀行、20年三池土木、22年三池紡績(後に九州紡績となり、その後鐘淵紡績に合併)の設立に参加し、それぞれ頭取、取締役として各企業の経営に参画している。 また、政治家としては、政友会の結成後同党に所属し、大正2年(1913)には2度目の幹事長に就任している。 第12回総選挙の指揮を執っているさなか病を得、議員辞職後に帰郷、大正6年12月に死去した。
 永江純一の経歴から明らかなように、この史料群は大きく企業経営関係の史料と政治活動関係の史料とに分けられる。 前者のうち、紡績会社経営関係史料の多くは、すでに『福岡県史 近代史料編 綿糸紡績業』に収録されている。 後者の一部は『福岡県史 近代史料編 自由民権運動』に収録されている。また、貴重な公文書も多数含まれている。

※ 本ホームページのほかに、既整理史料の目録の一部は『九州石炭礦業史資料目録』第9~12集(西日本文化協会、1983~1986年)に収録されています。

西川文書

 西川家は、福岡藩の支藩である秋月藩の家臣であった。 慶安(17世紀)の分限帳には鉄砲頭衆200石、享保(18世紀)の分限帳には御馬廻200石、文政(19世紀)のそれにも御供頭200石と記載されており、近世を通し秋月藩の中級家臣であった。 知行地は筑前国夜須郡上浦村と下座郡堤村(いずれも現在、福岡県朝倉市内)にそれぞれ100石をあてがわれていた。本史料は西川家から山田家へ婿養子に入った、山田正修が伝えたものである。 正修は、江戸時代は納戸役、公用人、明治時代は上座下座夜須郡長、福岡県会議員などを務めた人物である。明治26年(1893)から12年間、秋月黒田家の家令も務めている。
 史料の受け入れが2期にわたって行われており、目録中「AA」「BB」は受け入れ1期目、「A」~「F」は受け入れ2期目の史料である。
 1期の史料は寛永から享保にいたる326点からなり、ほとんどが上浦村庄屋と堤村庄屋から西川宛の年貢上納関係文書である。 近世前期の年貢上納関係を知るまとまった史料である。 2期の史料は近世史料と近代史料、619点からなる。近世史料は、1期に関連する年貢上納関係文書の他、秋月藩が江戸城神田橋門の門番を務めた際に作成された、神田橋御門御用留置帳を含む。 近代史料は、山田正修の郡長時代の郡役所記録、皇紀2600年(昭和15年)を記念して『朝倉郡誌』編纂が企図された際の朝倉郡誌編纂収集史料、正修の実兄である森左太夫の関連史料からなる。 森左太夫は西川家を継いだ人物で、明治になって森と改姓している。江戸時代は御馬廻頭、鉄砲頭など、明治時代は戸籍調子御用掛、十一大区十六小区副戸長など務めたが、明治9年(1876)に七大区五小区戸長を辞職した後の足取りははっきりしない。
 史料には「稽古館図」などの図面も含まれ、内容は多岐にわたっている。近世から近代に至る朝倉郡とその郡政に携わった西川家の動向をうかがうことができる史料である。

西村(太)資料

 西村(太)資料は福岡市出身の西村太郎氏から寄贈を受けた資料で、旧制中学校入学に際してのものと、兵役に関するものに大別できる。
 西村氏は大正11年生まれで昭和9年に旧制福岡中学校に入学している。入学に先立って配布されたと思われる入学心得や、制服・教科書などの指定品の案内書がある。
 九大在学中に学徒出陣。千人針や軍帽などの戦争資料が残されている。

農業関係資料

 九州大学農学部の教授であった山田龍雄氏の蔵書類である。
 ご家族の方より寄贈された。山田氏は日本農業史の研究で知られ、昭和52(1977)年3月に定年退官するまで、農政経済学科経済学農政学第一講座や農学第三講座で教授を務めた。九大退官後は下関市立大学で教授に就任し、昭和55年3月からは下関市立大学学長を2期務めている。昭和61年2月に学長退職後、同年8月に死去。大学で教鞭をとる他、日本学術会議会員や、日本農業経済学会会長、諫早などの干拓事業の委員も務めている。山田氏については『福岡地方史研究会 会報』第26号(福岡地方史研究会 1987)、『農業史研究会会報』第1号(1975)参照のこと。
 資料は出版物だけでなく、手書きの調査書やコピー、地図、図面も含み、総数1298点。明治から昭和までの資料があるが、昭和戦前期から高度経済成長期の資料が主である。内容は農業史・水利・小作・農村調査など多岐にわたる。自身の研究に関する資料に加え、干拓事業の参考資料や調査書類などの他、元は農政学者小出満二のものであったと思われる、小作制度調査委員会の参考資料も含まれている。小作制度調査委員会は、小作問題に対処するため、大正9(1920)年に農商務省内に設置された内規的機関である。小出満二はその委員を務めており、昭和3(1928)年から昭和13(1938)年まで九州帝国大学農学部農学科教授だった。  整理の方針としては、受入時の秩序に従って資料番号を付けた上、地域ごとに分類して並べ、連番を付けた。地域は佐賀県や熊本県といった有明海沿岸地域が多いものの、東北地方や関東地方、外国の資料も含まれている。なお、資料の形態に関して、冊子状のもので上製本のものは図書、それ以外のものは冊子としている。

野田大塊文書

 明治・大正期に活躍した三池郡出身の政治家、野田卯太郎(1853~1927)の関係文書である。
 野田は自由党・政友会系の政治家で、県会議員を経て衆議院議員となり、政友会幹事長、逓信大臣、商工大臣、政友会副総裁を歴任した。 また永江純一とともに、三池銀行、三池紡績の創立にあたるとともに、大日本綿糸紡績同業連合会委員、東洋拓殖副総裁などをつとめた。
 野田文書はおおむね、書簡を中心とする約2,300点の文書、日記・手帳、約300点の書類からなる。 とりわけ重要なのは書簡史料である。野田は自由党・政友会系の政治家であるとともに、伊藤博文、井上馨、寺内正毅、徳富蘇峰らと親しく、書簡に含まれる政治情報は多岐にわたっている。 また関係した会社や同業組合の活動など、財界史料としても貴重である。 ただ残念なことに、書簡史料については大正6年(1917)前後を下限として、それ以後のものが失われている。 日記は明治22年(1889)から大正15年までのものが残されている。

花瀬村庄屋文書

 花瀬村庄屋文書は、旧筑前国穂波郡花瀬村(現・飯塚市花瀬)の庄屋大和家に伝来した史料である。 花瀬村は、はじめ福岡藩に属し、元禄元年(1688)には直方藩領となり、それから享保5年(1720)より再び福岡藩領となっている。 内容は、慶長期から明治期までのものであり、慶長7年(1602)「検地帳」をはじめ「名寄帳」「倹約作法書」「宗旨御改帳」などがみられる。

林(美)文書

 林(美)文書は、福岡藩の大工頭のもとで大工棟梁を勤めた林家の子孫である林美数世氏旧蔵の史料である。 林助四郎は安永3年(1774)に、その子武四郎は文化11年(1814)に御普請御役所棟梁役を命じられている。 文書の多くはこの2人に関するものであるが、林氏は近代には簀子町惣代をも務めており、その貢献に対する感謝状なども若干含まれている。
 文書の総数は486点で、そのうち建築間取図や建築部材見積りなど、新築・修復などにかかわる近世史料が大半をしめている。 建築関係文書の内訳は、江戸藩邸に関するもの、各所定番役宅・遠見番所・台場など警備に関するもの、奉幣使・巡見使などの饗応に関するもの、藩と深い関係にある寺社に関するもの、 福岡城三ノ丸御下屋敷に関するものなどに大別される。 いずれも建築史や都市空間史を知るうえで貴重な資料であり、また、藩が直接普請した一連の施設の性格を知ることもできよう。

東下村史料

 東下村史料は、旧豊前国上毛郡友枝手永の諸村に関する120点余の史料である。
 友枝手永諸村のうち東下村(現・上毛町)に関する史料が圧倒的に多く、尻高村・西友枝村・矢方村関係の史料なども若干含まれている。 文書の作成時期は享保から明治前期にわたるが、ほとんどは文政以降のものである。 文書の作成者としてその名が多くみられる東下村庄屋中村家に伝わったものと思われる。
 近世史料の内容は「川成改帳」「野取帳」「救米割符帳」「納米差引帳」「諸物成名寄帳」「役目帳」「宗門改帳」などで、種類も豊富である。
 近代史料としては、庄屋から上毛郡第65区の区長となった中村碩蔵に関わる第65区関係の史料、地租改正関係史料、および各種書式の雛形などがみられる。

福岡県酒造組合資料

 明治18年(1885)、布達第40号により同業組合準則が公布された。 明治22年9月、初代会長小林作五郎の尽力により、福岡県聯合酒類製造同業組合が創立され、翌23年4月に福岡県酒造業組合と名称を変更した。 明治31年12月、酒造税法が改正され、明治32年7月、酒造組合規則が勅令第340号として公布された。 新たな酒造税法に拠る組合を設立するため、再び組織変更が行われ、明治32年10月に創立総会を開催し、定款を改め、同年12月福岡県酒造組合が認可された。
 資料点数は少ないが、組合を知るうえで不可欠な「決算報告書」、「総会決議録」などが含まれている。

※ 酒造組合の基本的な沿革と業務については、橋詰武生編『福岡県酒造組合沿革史』(福岡県酒造組合、昭和32年)に詳しく記述されています。

福田文書

 福田文書は、旧筑前国遠賀郡陣原村福田家に関する65点の史料である。 遠賀郡陣原村(現・北九州市八幡西区)は、明治初期には稲、麦、菜種などを作り、生蝋が生産されていた。
 史料は、寛政から昭和戦前期(1789~1800)にまでおよぶ福田家の家政史料である。 寛政期の借用証書や、福田直次郎・徳市が関わる生蝋・米などの「売記」および諸品(石炭油・大豆など)の「買記」など、明治期の売買史料が中心である。 また、昭和戦前期の書簡や日本製鉄八幡共済組合「愛国国債共同購入掛金現在高通知書」、「従量電灯料領収証」なども含まれている。

藤井(甚)文書

 歴史学者藤井甚太郎に関する文書である。 藤井甚太郎は、明治16年(1885)、旧福岡藩士藤井一寛の長男として福岡市に生まれる。 糟屋郡古賀町で成長し、修猷館、旧制五高を経て、東京帝国大学文科大学史学科に進学した。 大学院で徳川幕末史を研究し、後に文部省維新史料編纂事務局に入り、歴史研究者として歩んでいく。 第二次大戦後、実践女子専門学校、法政大学教授に就任し、維新史・憲政史の権威であった。
 文書は近世期のものが多く、断簡類にある〔文書等目録〕からすでに近世段階から給地判物類の整理がなされていたことが窺える。
  ※ なお、藤井甚太郎に関する史料群はいくつかに分散している。 他機関所蔵については、さしあたり、『福岡県地域史研究』第7号所収の「福岡県糟屋郡古賀町所在史料仮目録」、福岡市博物館編『昭和63年度収集 収蔵品目録6』などを参照されたい。

本田(誠)文書

 本田(誠)文書は、旧筑前国遠賀郡岩屋浦(現・北九州市若松区有毛)の浦庄屋家に伝来の慶長期より明治期におよぶ記録である。 岩屋浦は、響灘に面した有毛村の枝郷であり、延宝8年(1680)には福岡藩によって岩屋遠見番所(島番役)が設置されている。 また、慶応2年の小倉戦争の際、筑前国遠賀郡に避難した小倉藩平松浦の漁民の一部は、この岩屋浦に滞在している。
  史料は、慶長13年(1608)「有毛村之内岩屋村畠方帳」と寛文元年(1661)切支丹「条々」が初期に属し、宝暦11年(1761)「浦奉行通達」、同14年「有毛村庄屋組頭願書」、 明和9年(1772)「浦大庄屋勤方心得之事」、寛政6年(1794)「異国船唐船漂流漂着之節御定書」などがそれに続く。 また、寛政期以降の海難の浜証文類も多くある。田畠関係証文は享保7年に始まるが、寛政期以降のものが多い。 明治5年(1872)以降のものはほとんどが田畠関係である。

松村(ム)文書

 松村(ム)文書は、旧筑前国福岡紺屋町松村家(楠屋)に関する1,835点の商家史料である。
 松村家(楠屋)は、享保初めごろから質屋と酒造を営み、享保末ごろには、質のほかに蚊帳、帷子、古手、木綿、木綿縞、米、みそ、醬油などを取り扱っていた。6代目半兵衛(のちに半平)のころ1人扶持を与えられ、 それ以後「年寄格」「御用聞町人」「年行司格」と家格をあげ、慶応元年半右衛門の代には福岡・博多町人格式の上位3番目にあたる「大賀次」となった。
 史料は、正徳3年(1713)以降から見られ、その多くは近世後期から明治前期のもの、享保以降の「大福万覚帳」「算用帳」「種櫨買入帳」「米穀買入帳」「店卸覚」などの 経営帳簿とともに、諸種の売買証文、借用証文、預り手形、口上書、願書などが残っている。また、藩士が楠屋からの借入金を返済するために行った 「直津出」(借主の知行地から貸主の商家へ年貢を直納すること)に関する史料も少なくない。法事関係の帳簿類からは、葬送の慣行や松村家を巡る社会関係を伺うことができ、 その他にも紺屋町の絵図、松村家の宗門人別改帳、称誉に関する史料などがある。

※ 仮目録および解題を『福岡県地域史研究』17号・18号・23号(平成11年・12年・18年)に収録している。

松屋文書

 松屋文書は、いずれも「大福万覚帳」と題する長帳7点である。 1点が安政6年(1859)で、他は明治14年(1881)、21年、23年~36年。 明治期の分はいずれも中町(または中街、南加街)の松屋喜太郎とあり、内容から見て、松屋は、現在柳川市に属する中町で米屋を営んでいたようである。 明治26年の分を見ると、米、大豆、餅の売上の記録であり、取引先は小口は当町、市街といった地域ごとに、大口は大和屋などの屋号、十時などの姓で分類されている。
 安政6年の分は満津屋岩太郎の手になり、宿屋、料理屋の賄いの記録と思われる。 客の名、賄いの内容、代金などが記されている。 昼の賄いに「蒲焼」とあるのは土地柄を表わしていておもしろい。 また、客の中には御代官様、御役頭様なども見られる。

御笠郡土木資料

 御笠郡土木資料は、土木関係の公文書で、筑紫野市域の旧役場史料であると考えられる地図5点、台帳6点からなる史料である。
 明治28年(1895)の「土木ヶ所調帳」2点は二日市村大字武蔵、山口村大字針摺のもので、大字の総代が立ち会って作成し、那珂御笠席田郡長に宛てた形式を取っている。 土木ヶ所に村営、郡営の区別を立てる必要があったようである。 そのほかに「土木取調帳」4点は、吉木村、紫村、杉塚村、二日市村のもので、明治22年の町村合併以前に作成されたことが明らかである。 これは戸数、人口、田・畑・宅地反別など村の基本的な統計をあげた後、川之部、道路之部、用水之部、悪水之部に分けた土木関係の台帳となっている。
 地図はこの「土木取調帳」に対応するものと思われ、27年8月作成の二日市村大字杉塚「土木取調図」では赤・青・紫などに色分けされ、字、小堰、樋、道、用水、溜池などが書き込まれている。 残る地図は、針摺、二日市がそれぞれ2点あり、二日市町関係の分には現在のJR、西鉄に相当する線路が描かれ、山十製紙会社や、延寿館、コルク工場、尋常高等小学校、変電所、二日市町公開堂、 避病院、乾繭所などの位置が書き込まれている。二日市温泉周辺の地理をうかがうことのできる好史料である。

水城文書

 水城文書は、筑紫野市山家の水城家旧蔵史料であり、51点からなる。
  「郡屋」あるいは「山家宿御郡家」の水城正五郎、「山家駅河口屋」水城五郎七らの家に伝来した史料であり、水城正五郎の肩書きは、宿場の郡屋守をつとめていたことを示している。 福岡県文化会館編『福岡県古文書等緊急調査報告書(旧筑紫郡)』によれば、昭和56年(1981)水城家3軒を調査した中に本文書はみられず、文書の中に残されたメモから、 昭和47年以降緊急調査以前の間に旧蔵者の手から離れていたものと推測される。
 史料の内容は、まず村方史料として文化2年(1805)11月「山家村軸帳」がある。 また、藩政に関わる史料として、安政2年(1855)8月「筑前国人数并郡中大河牛馬船覚」、嘉永6年(1853)4月「筑前寺社領」があり、 後者は途中に「御制札写(明和2年3月写)」と「御書出し」が含まれている。 そのほかには幕末の風説書2点がある。家関係では明治27年(1894)1月から28年1月末までの「日誌(仮題)」のほか、昭和26年(1951)までの日記が断続して残っている。 明治5年9月「田畠地代控帳」は宅地の野取図に類するものだが、「大道」に沿った宅地の様子や宅地内の家屋の配置、隣接する境地の持ち主など、通常の野取図より詳しい情報が得られる。

宮川文書

 宮川文書は、宮川謙三氏(元九州大学教授)宅に保存されていた、福岡医学校に関係する史料である。
 明治12年(1879)7月、福岡医学校は、博多川畔の東中洲に開設し、翌13年1月開校式が行われた。福岡医学校教師には東京大学医学士の大森治豊・熊谷玄旦などが着任した。 史料のほとんどは明治10~20年代のものであり、当時の講義スタイル、内容などを知ることができる。

矢野文書

 矢野文書は、筑後国生葉郡大石村(現・うきは市浮羽町)の矢野茂七のもとにあったものと思われる史料である。
 大石村の近世の地名は朝田村中津留名で、明治9年(1876)に中津留名は古川村になり、明治22年に合併して大石村になっている。 そして生葉郡は明治29年から浮羽郡に所属している。
 史料は安永期から明治期にいたる379点からなり、そのほとんどが矢野家宛の借用文書と講の文書で構成されている。 借用の引当としては、田畑のほかに講口・籾・辛子(芥子)・仏具・荷舟等が当てられている。講の内容は、伊勢講・頼母子講・畳講等である。 この他「安永四乙未以来年普記」には当時の米価やその他の物価が記されている。 近世の矢野家については不明であるが、明治期の矢野茂七は、資産家で、清酒醸造を営み、村会・郡会議員や、大石銀行の監査役を務めている。

矢野(久)文書

 矢野(久)文書は、うきは市吉井町の矢野久治のもとにあったと思われる生吉銀行・筑後軌道・九州鉄道・連絡自動車各会社の営業報告書類を中心とした36点からなる。 なお、矢野久治の詳しい経歴は不明である。
 最も量的にまとまっている生吉銀行に関する史料には、若干の欠落はあるが昭和3年下期から13年下期までの営業報告書および株主名簿がある。 筑後軌道については、昭和3年上期の営業報告書ならびに4年下期から6年上期にいたる(5年下期欠)清算事務報告書、6年11月25日付の決算報告書が含まれている。 連絡自動車関係では、昭和3年下期、6年下期の営業報告書と同年上期の財務諸表および6年10月1日印刷の定款がある。 また、史料より矢野久治がそれぞれの会社の株式を所有していたことがわかる。 そのほか、昭和10年下期の九州鉄道(現西鉄)の営業報告書があるが、同社の株主ではなかった矢野久治の手にいかなる経緯で渡ったのかは不明である。

山北村庄屋文書

 山北村庄屋文書は、うきは市浮羽町山北の河北昌輔氏宅に伝来した1,162点の史料群である。 本史料群は旧山北村の庄屋吉瀬家旧蔵のものであるが、折半された半分を昌輔氏の祖父河北幾次氏が受け継ぎ、他の半分は所在不明で散逸したと思われる。
 山北村は、近世は久留米藩の領域に属し、吉井の大庄屋田代家の支配(田代組)内にあった。 近世初期より明治初期まで吉瀬家が庄屋、戸長をつとめており、河北家は組惣代・長百姓・横目をつとめている。 藩政村としては著しく広範囲の村であり、本村と筑後川畔の三ヶ名からなっている。 本村・三ヶ名の産土神は賀茂大明神(賀茂神社)であり、文禄4年(1595)には850石余、慶安以降は1,200から1,300石、三ヶ名300石程度であった。
 史料は元和5年(1619)の検地帳(前欠)をはじめ近世前期より明治期にいたるまでの、村方の庄屋に伝来する文書の一般的な在り方を示している。 近世前期については、数は少ないが慶安元年「御物成御年貢割符」、承応3年(1654)「五才以上人数御改帳」、明暦3年(1657)「草臥百姓続百姓帳」などがある。
 元禄ないし享保期以降は文書の数もしだいに多くなり、とくに後期、幕末期のものが多い。 「本地開方田畑石高」「物成高帳」「坪付帳」「畦数野取帳」「年貢割付帳」「名寄帳」「公役割賦」「役高帳」「津出着到帳」など土地、年貢、夫役関係のもの、 「宗門御改人別帳」「五人組帳」「人高帳」「軒数牛馬数控」「居屋敷畦御改坪付書上帳」「御印棒並職人書上」など人、身分、人数、軒数、牛馬関係のもの、 「御用廻状」「御用覚帳」「御用留」「算用覚書帳」など支配や村政関係のもの、また御囲籾や農兵や神社の祭礼など、村の生活全般におよんでいる。
 明治初期は地租改正関係のものが多く、ほかに布達、願伺書、上納徴収関係や「秣山境界定約証」「戸籍番号取調子書上帳」などがある。

鑓水文書

 鑓水文書は、旧筑後国生葉郡妹川村(現・うきは市浮羽町妹川)の鑓水静夫氏宅に伝来した618点の史料である。
 妹川村は、近世期には吉井町の大庄屋石井家の支配下にあり、明治初期は第四大区小一区、明治9年(1876)には第十一大区二小区、同11年に再び妹川村となり、 同22年の町村制の施行によって小塩、新川、田篭とともに姫治村の大字となっている。 鑓水家は妹川村藤波名の名頭役を家職とし、明治期には村政にも深く関わった名望家であった。
 史料は、田畑畝高・物成、山関係や幕末の農兵や軍役関係、そのほか多くの売買、譲渡、貸借関係の証文が含まれる。 また、幕末期の妹川村が関わった秣山をめぐる山論に関する史料は、注目すべき史料である。
 明治・大正期の史料の大部分は、名頭で後に保長、姫治村村会議員、助役をした鑓水球平次の代のもので、妹川村・姫治村の地租、村政などに関係するものが多い。 家関係では「出精籾取立帳」「同貸付帳」は比較的連続しており、「土地売買証文」「金子借用証書」「覚」等もある程度の数があり、近代の村の内部を具体的に知る史料である。

※ 本ホームページの他に、仮目録および解題を福岡県地域史研究所編・発行『福岡県地域史研究』19号・20号(平成13、15年)に収録されております。

矢山村史料

 本史料は京都郡矢山村の史料である。矢山村は、慶長年間(1596~1615)以前は京都郡に属していたが、のち平尾台の草刈権保持に関する利害を異にしたため、上矢山と下矢山に分村し、 上矢山村は企救郡、下矢山村は京都郡に属し、それぞれ矢山村となる。
 史料点数はわずか13点であるが、小倉県、京都郡からの布告、布達などを綴った貴重な公文書である。

地図・絵図史料

 福岡県史編纂事業では、文書史料とともに地図・絵図、写真も収集してきた。 これらの史料は、文字史料では判然としなかったものをいっぺんに理解させてくれることがある。 収集した地図・絵図の多くは購入史料であるが、家分け文書の中にも散見する。 とくに絵図に関しては家分け文書の中に確認されているが、整理が済み次第、目録に追加していく予定である。
 収集した地図には、近世の手書きのものもあるが、ほとんどは明治以降の刊行物である。 近代の地図は、地形図だけではなく、俯瞰図、博覧会等の案内図などもあり、いくつかの地図には広告が記載されていて興味深い。 地域的には福岡県全域と北九州地区と福岡地区が大半を占める。絵図は、屋敷図・家相図などである。
 なお、目録化にあたっては、地域分類(福岡全域、北九州地区、筑豊地区、福岡地区、筑後地区、その他)を行い、その中で年代順に並べた。

絵はがき

 地図や絵図と並んで、県史編纂事業では絵はがき史料も収集されている。その数はおよそ2,000点で、撮影地の大部分は県内のものである。 内容としては、戦前の博覧会・共進会の様子を描いたものや、県内各地の名所図会などが多いが、そのほかにも多種多様なものがある。
 これらは、文字史料だけでは窺うことのできない地域の歴史の模様を直接映し出したものであり、史料として非常に興味深いものである。
史料名 地域
〔または旧蔵地〕
時期 点数 備考
秋月諸家文書 旧筑前国秋月藩領 (現朝倉市) 享保~大正期 15点 諸種史料 史料概要
秋吉文書 大分県 大正~昭和 243点 辞令、蔵書類 史料概要
安高文書 遠賀郡芦屋町 明治初期~昭和40年代 約12,700点 日記、防風林伐採被害補償資料、八幡下肥採取統計表、晴曇雨雪統計表、就寝時間統計表、書簡、写真ほか多数 史料概要
足立文書 現福岡市博多区 近世・近代 548点 帳簿、書状、仕切書など 史料概要
有田(建)文書 旧嘉穂郡 主に明治・大正 1,555点 帳簿、領収書、書簡など 史料概要
井手(武)文書 旧御笠郡(現筑紫野市) 明治31~昭和10年 14点 御笠銀行営業報告書、筑紫郡役所からの通知、陸軍秋季演習関係史料など 史料概要
伊熊(イ)文書 〔佐賀県小城市小城町〕 天保~明治期 116点 武家史料(福岡藩)・家史料
石野文書 旧筑後国生葉郡下宮田村 (現うきは市) 元禄~大正期 419点 庄屋文書および家史料 史料概要
石橋(ハ)文書 旧山門郡 〔現柳川市〕 明治~昭和期 320点 家史料(地主) 史料概要
石橋文書 旧筑前町早良郡入部村 (現福岡市早良区) 安永~明治期 228点 家史料(地主) 史料概要
伊藤(昌)文書 田川郡 幕末~昭和初期 447点 小作関係、借用証文、村政に関する史料など 史料概要
伊東(尾四郎)文書 福岡県 近世・近代 整理中 『福岡県史資料』編纂収集資料
大浦家資料 旧筑前国怡土郡田中村 (現糸島市) 天保~明治期 852点 家史料(証文類)
大川架橋工事関係資料 柳川市・大川市 昭和28~35年度 5点 柳川土木事務所および大川橋架設工事事務所資料 史料概要
尾形文書 福岡県行橋市 福岡県行橋市 明治31年~昭和戦前期 4点 諸種史料 史料概要
貝原収蔵文書 海外(中国) 大正~昭和期 131点 在華日本人実業家の史料 史料概要
「糟屋郡史」編纂関係資料 旧糟屋郡 昭和10年代 219点 編纂収集史料 史料概要
糟屋郡・宗像郡戸長役場関係資料 旧糟屋・宗像郡 明治13~20年 15点 役場史料 史料概要
片田江資料 唐津市 昭和30年前後 95点 近松会ほか素義(素人義太夫)関係史料 史料概要
鎌田(恒)文書 旧糸島郡志摩町 (現糸島市志摩町) 明治~昭和期 約500点 書簡、はがき、志摩町関係史料など
河田家資料 福岡市、朝鮮 明治~昭和20年代 100点以上 朝鮮総督府管下の郵便局資料、配給切符など戦時資料、謡本 史料概要
川島文書 福岡県福岡市 元治2~明治22年 90点 家史料 史料概要
岸田文書 福岡県福岡市 明治43~昭和17年 19点 家史料 史料概要
熊谷文書 旧筑前国上座郡星丸村 (朝倉市杷木) 近世・近代 約24,000点 商家兼地主史料、公文書 史料概要
古賀(昌)文書 旧生葉郡千代久村 (現うきは市) 明治初期 6点 土地関係史料 史料概要
権藤寿三郎文書 福岡県福岡市 明治36年代~大正10年 4点 家史料 史料概要
斎田家史料 福岡市 明治20年代~昭和30年代 61点 写真史料、福岡日日新聞社・西日本新聞社関係 史料概要
佐々木(清)文書 北部九州 大正~昭和期 106点 陸軍国家改造運動関係資料 史料概要
篠崎文書 不詳 明治7~昭和6年 11点 家史料(大福帳類) 史料概要
篠田文書 〔大野城市〕 慶応~昭和期 234点 甘木(現朝倉市)郵便局史料 史料概要
庄崎家資料A 旧糸島郡(現糸島市) 明治~大正期 43点 家資料 史料概要
庄崎家資料B 旧糸島郡(現糸島市) 明治~昭和期 6点 推薦状ほか 史料概要
瀬高酒造合資会社資料 旧山門郡瀬高町 (現みやま市) 大正元年~15年 12点 経営史料 史料概要
戦時婦人生活資料 福岡県他 大正~昭和期 59点 書冊類 史料概要
園田文書 旧筑後国久留米 文化14~明治42年 258点 武家史料 史料概要
高畠文書 旧筑前国福岡 寛政~明治初期 17点 武家史料 史料概要
高家村文書 大分県宇佐市 宝暦10~明治8年 75点 土地売買証文 史料概要
戸川(博)文書 〔福岡市城南区〕 明治~大正期 312点 日誌・営業報告書 史料概要
杤木商事資料 現北九州市 昭和16~18年 17点 海運関係 史料概要
友枝村役場文書 旧上毛郡友枝村 (現築上郡上毛町) 明治期 7点 公文書 史料概要
鳥居文書 旧筑後国久留米 近世・近代 303点 主に証文、書簡など
中尾文書 旧筑前国糟屋郡 近世・近代 2,482点 もとは大庄屋。主に長帳、書綴など
中間唐戸水門文書 旧筑前国遠賀郡 (現中間市・遠賀郡・北九州市) 文政~慶応期 14点 堀川運河中間・寿命の唐戸水門普請関連史料 史料概要
永江文書 旧三池郡江浦村 (現みやま市高田町) 近代 約19,000点 明治・大正期の衆議院議員永江純一関係史料(公文書を含む) 史料概要
西川文書 旧筑前国秋月藩領 (現朝倉市) 寛永~享保期 326点 武家史料 史料概要
西村(太)資料 福岡市 昭和9年~昭和20年 11点 旧制福岡中学校入学関係、千人針・軍帽など 史料概要
農業関係資料 福岡県他 明治~昭和 1298点 農業史・水利・小作・農村調査他 史料概要
野田大塊文書 〔東京都港区〕 明治~大正期 4,834点 明治・大正期の衆議院議員野田卯太郎関係史料 史料概要
花瀬村庄屋文書 旧筑前国穂波郡花瀬村 (現飯塚市) 近世・近代 5,974点 庄屋文書および家史料 史料概要
羽野文書 旧筑前国福岡藩 元文~明治期 165点 武家史料
林(美)文書 〔福岡市南区〕 近世・近代 545点 福岡藩大工棟梁史料 史料概要
東下村史料 旧豊前国上毛郡東下村 (現築上郡上毛町) 享保~明治前期 129点 上毛郡友枝手永関係史料 史料概要
平山文書 旧三池郡大牟田 明治~大正期 約800点 平山材木瓦商店史料
福岡県酒造組合資料 福岡県 明治期 30点 組合資料 史料概要
福岡藩関係史料 旧筑前国福岡藩 近世・近代 633点 福岡藩関係史料
福田文書 旧筑前国遠賀郡陣原村 (現北九州市八幡西区) 寛政~昭和戦前期 102点 家史料(生蝋米諸品売買関係) 史料概要
藤井(甚)文書 旧筑前国糟屋郡 (現古賀市付近) 近世・近代 167点 宛行状(写)、書状など 史料概要
本田(誠)文書 旧筑前国遠賀郡岩屋浦 (現北九州市若松区) 慶長~明治期 176点 浦庄屋史料 史料概要
松尾屋文書 福岡県 明治5年 2点 売仕切之覚
松村(ム)文書 旧筑前国福岡紺屋町 (現福岡市中央区) 正徳~昭和戦前期 1,835点 商家の経営史料および家史料 史料概要
松屋文書 旧筑後国柳川中町 (現柳川市) 安政~明治期 7点 米屋の経営史料 史料概要
御笠郡土木資料 旧筑前国御笠郡 (現筑紫野市) 明治期 11点 役場史料 史料概要
水城文書 旧筑前国御笠郡山家村 (現筑紫野市) 文化~明治期 51点 庄屋文書および家史料 史料概要
宮川文書 現福岡市博多区 明治期 60点 福岡医学校関係史料 史料概要
矢野文書 旧筑後国生葉郡朝田村 (現うきは市) 安永~明治期 380点 家史料(証文類) 史料概要
矢野(久)文書 旧浮羽郡吉井町 (現うきは市) 昭和戦前期 36点 営業報告書 史料概要
山北村庄屋文書 旧筑後国生葉郡山北村 (現うきは市) 元和~明治期 3,291点 庄屋文書および家史料 史料概要
鑓水文書 旧筑後国生葉郡妹川村 (現うきは市) 享保~昭和戦前期 617点 庄屋文書および家史料 史料概要
矢山村史料 旧京都郡矢山村 (現行橋市) 明治期 13点 布達・布告綴 史料概要
渡辺(半)文書 旧築上郡角田村 (現豊前市) 明治~大正期 99点 役場史料および家史料
地図・絵図史料 福岡県他 天保~昭和期 243点 地図・絵図・案内図など 史料概要
絵はがき 福岡県他 明治~昭和期 1,902点 絵はがき 史料概要